
この春みた全ての椿の彩を、この男に捧げたいと思った。甲斐荘楠音(かいのしょうただおと)(1894-1978)。大正デカダンスの香りも濃ゆき日本画家として若き日にデビューするも、画壇になじめず、のちに風俗・衣裳考証家として活躍した。
楠音の肖像写真 『甲斐荘楠音の全貌』(MoMAK)より
うす闇をひそやかに咲く花として定まりたるや椿の赤は
the coloursof camellia bloomingin the gloommight be determined by its lonely and secret nature

喘息もちの少年は、家で羽子板や御所人形を愛玩した。長じては芝居にのめり込み、生々しい美人画を描いた。女性のモデルを雇い、写真を撮るにとどまらず自ら女装し、その姿を写真に撮らせた。太夫など、歌舞伎のなかの女形を演じるその姿はコスプレ・トランスジェンダーのはしりであったか。
それとも、自らの体を使って人体表現を研究していたのか。
美術史講座のとある同級生が、
美術館で人物像のポーズを真似ていたことを思い出す。
欧州の画学生がイーゼルを立てて名画を模写するように
美術史の学生は鉛筆で、あるいは体を使って絵や彫刻をなぞる。
楠音の行為も、始まりはさほど突飛なものでは無かったかもしれぬ。
今回の展覧会に行こうと決めたのは、
下図のカーネーションをもつ女人像が
岸田劉生のアカマンマをもつ麗子像と
相通じると直感したからだ。
おなじ大正時代に活躍した日本画家と洋画家。
岩絵具と油絵具、もちいる絵具は違えど、
レオナルドやデューラーの細密画法を知る二人の近代の日本人画家は、
同じような濃密な美を求めていたのかもしれない。
劉生は「デロリとした」絵を追求し、
顔輝など中国絵画の要素を油絵にもちこんだ。
自称「神秘的写実主義」である。ひるがえって、
楠音はレオナルドのスフマート技法を日本画に取り入れた。
肌を愛撫するような絵筆が、日本画離れした質感を表現する。
藤田嗣治の「乳白色の肌」よりも更に生々しき肌(はだえ)。

『甲斐荘楠音の全貌』(MoMAK)『岸田劉生』(同朋舎)
『村上華岳』(朝日新聞社)

不思議なことに、甲斐荘楠音の美人の手つきは
仏像が結ぶ印を思わせる。
彼の師匠は、妖艶な仏画を多く描いた村上華岳であった。
華岳の「夜摩天像」の手(とくに右手)と
楠音の赤衣の「女人像」の花をもつ手とを
見比べてほしい。
(仏画を思わせる手は、鏑木清方の美人画「朝涼」等にも見られる)


楠音の母の肖像もまた、仏像を思わせる面差しである。
図録には母の肖像写真も収められている。
楠音と似たうりざね顔で、絵の方がかえって男性的に見える。
仏菩薩には性別が無い。
福耳を強調していることといい、画家は母に
性別を超えた仏性を投影したのだろうか。
楠音の写真アルバム(展覧会図録より)
楠音の父方は楠木正成をルーツとする旧旗本の家系であった。画家楠音が甲斐「荘」ではなく甲斐「庄」を名乗ったのは、血筋をひけらかすな、との家訓によるとも言われる。いっぽう、母方の祖父母は御所につとめる宮系士族であった。
祖父は宮中の座興として狂言を演じることもあったという。
のちに楠音が「演じる」画家になるのは隔世遺伝のなせる業か。物静かな母は、若いころ親に隠れて女紅場(女学校)に通い、新島八重に英語を習うなど、気概を秘めた女性であった。楠音のわが道をゆく画業と生き方は、母ゆずりの気概ゆえか。

母の肖像に描かれた洋風のガラスのコップは留学帰りの楠香(楠音の兄)のお土産だろうか?
わが家にも似たコップがあります(北欧系ベーカリーのもの)↓

檸檬ドーナツとアーモンドプードル・ドーナツ
京セラ美術館でもとめた『喫茶店の時代』
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