天使と黒髪のステファニア
旅の初めと終わりをともに過ごしたステファニア。一人ではなく、二人いる。ローマのアヴェンティーノの丘で、猫と戯れる黒髪のステファニア。フィレンツェ郊外へ自分の車で連れて行ってくれた金髪のステファニア。現地ガイドの二人に導かれ訪ねた教会や古代遺跡は、いまもひときわ鮮やかに心に刻まれている。

黒髪のステファニアはしっかり者。天使の絵にぼんやり見入る私を急き立て、町なかの細い抜け道を通って目的地へ案内してくれる。朝早い日は手作りのパニーノを持ってきてくれたり、空き時間にボーイフレンドに携帯電話をかけたり、女らしい一面もある。
Ciao,Ciaoと仔猫の声音で彼氏との電話を切れる黒髪のella(彼女)
(チャオ チャオ と こねこの こわねで かれしとの でんわを きれる くろかみの エッラ)
サン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂を訪れたときのこと。
堂宇に入ると、聖マタイの生涯を描いた三枚の絵が、三方から祭壇を取り囲んでいる。描いたのはカラヴァッジォ、劇的な明暗表現でバロック絵画への扉を開いた画家である。

正面の絵では、聖マタイが福音書を執筆している。ペンを握りしめたまま振り返っているのは、頭上から不意に天使が舞い降りてきたからだ。
身にまとった白い布が漆黒の虚空に翻り、ストップモーションのように凝固している。天使の肩や腕は、少年にしては筋肉が盛り上がり力強い。仏教の転法輪印にも似たしなやかな指先とあいまって、「アダムの創造」をはじめとする、ミケランジェロのフレスコ画を思わせる。
この絵の左隣が有名な「聖マタイの召命」である。収税人だったマタイがキリストに呼び出され、生き方を変える場面だ。須賀敦子に、この絵に言及した随筆がある。
作家は薄闇のなか、照明装置に硬貨を入れながら絵に見入る。おそらく、今ここにある箱型の装置と同じものだったろう。お金を入れて明かりが点くと同時に、ガチャンと鈍い音が堂内に響きわたる。

「右手の戸口から入ってきたキリストが、しなやかに手をのばして収税人のマッテオを指さしている。(…)マッテオは(…)自分の胸を指さしている中年の男だ。(…)私は、キリストの対極である左端に描かれた、すべての光から拒まれたような、ひとりの人物に気づいた。(…)そのテーブルにのせた、醜く変形した男の両手だけが克明に描かれ、その手のまえには、まるで銀三十枚でキリストを売ったユダを彷彿させるような銀貨が何枚かころがっていて、彼の周囲は、深い闇にとざされている。カラヴァッジョだ。とっさに私は思った」(『トリエステの坂道』)
画面の片隅にひっそり坐った男の手が、作家の目を引いたのはなぜか。彼女と同じ場所に立ってみて、すぐに分かった。この絵は祭壇の左壁に位置するので、見る者にとっては画面の右が一番奥に、画面の左が一番手前にくる。だから、左端の男の手が目に飛び込んでくるのだ
反対に、画面の右端に立つキリストはひどく遠い。二人のちょうど中間にいるのは、「光を顔に受けた少年」である。この少年もまた画家の自画像ではないかと作家は考える。犯罪や暴力と縁の切れなかった画家の、光と闇の部分を、二人の人物を通して描いたのではないか、と。
一方、この歪んだ手をもつ左端の人物をマタイとみる説もあるらしい。キリストの手の届かぬところで、両手を握りしめ俯く男。この醜い自画像が次の瞬間、聖なる人物への一歩を踏み出すのだろうか。「最後の審判」の聖バルトロマイの抜け殻に扮したミケランジェロを思い出す。

この随筆には、もうひとつの手の記憶が記されている。ローマのカンポ・マルツィオ広場のそばに、作家の敬愛するイタリア女流作家が住んでいた。その黄色い家に、須賀は何度かあたたかく迎えられる。あるとき、主人のナタリア・ギンズブルグは体を悪くしていて、疲れたよわよわしい手でコーヒーをいれてくれた。それが二人で過ごした最後の時間になった。
「もう二度と、ナタリアの声を聞くことはないのだし、あの階段を上がることもないだろう。雨のカンポ・マルツィオ広場で、私は重い現実を支えきれないでいた」(『トリエステの坂道』)
そう記した作家もまたこの世にいない。今から一年前の春浅い日に旅立った。
そのとき私の目に涙があふれてきたのはなぜだったのか。明かりが消え、絵の前を離れた私の肩をステファニアがそっと抱いてくれた。
「連れて来てくれてありがとう」
そう言うと
「お礼はカラヴァッジォに…」
ささやきが耳に落ちた。
(「天使と金髪のステファニア」に続く)

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