絵筆を握った天使

サン・マルコ修道院を訪ねるなら、よく晴れた朝。澄んだ空気、淡い黄褐色の回廊をおとなうのは朝の光ばかり。中庭の芝生の中央にまっすぐ伸びた一本の杉の木が、回廊の壁に影を落とす。
この美しい回廊が造られたのは15世紀前半。コジモ・ディ・メディチが古い修道院を買い取り、ドミニコ会に与えたのが始まりだった。荒れ果てた建物が、ミケロッツォの設計で、ルネサンス様式の修道院へと生まれ変わった。その優美な建築を数々のフレスコ画で飾ったのが、画僧フラ・アンジェリコである。いまでは、彼がフィレンツェで描いた絵画が集められ、サン・マルコ美術館と呼ばれている。

階段を上り、踊り場にさしかかると、階上の四角い空間いっぱいにやわらかな色彩が広がる。「受胎告知」と出会う瞬間。フレスコの穏やかな色が、目と心を優しく包みこむ。紙障子ごしの朝陽のようなしずかな明るさ。
絵のなかの淡褐色の列柱は、ミケロッツォの回廊とよく似ている。聖母がかける木の椅子も、修道士がふだん使うものと同じだ。ここでは絵画空間と現実空間がゆるやかにつながっている。いま、この修道院の片隅で、聖母と天使が言葉を交わしている―そんな幸福な錯覚をおぼえる。

敬虔に跪く大天使ガブリエル。赤みのさした頬、ぽっちゃりした手指に健やかさがあふれている。まるで利発なイタリアの少女が、大切な使者の役目をはたしているよう。
長い翼は赤、白、橙、緑に彩られ、孔雀の円形模様が並ぶ。朝露にきらめく虹をみる思いがする。虹は天国への架け橋とされ、天と地を結ぶみ使いを彩るのにふさわしい。また、孔雀の羽は春に生え替わることから復活の象徴とされ、円形模様はすべてを見通す神の眼にたとえられる。東洋なら孔雀明王がよく知られている。
天使は処女マリアを見つめている。マリアの濃紺の衣の裾がふわりとひるがえる。天使が降り立つ瞬間、風が起きたのだろうか。それともマリアの心の波立ちを暗示しているのだろうか。
列柱の外には木々が茂り、草の花が咲いている。質素な木の柵と樹木が視界をさえぎり、心を遠くへ誘うような山も湖水もない。ただひたすら天使と聖母を見つめるよう促しているかのようだ。

回廊の左右の白壁に、灰青色のアーチがずらりと並んでいる。修道士が修行する小部屋だ。古びた木の扉はすべて内側へ開いたままになっている。
赤いコットの床に足を踏み入れると、真っ白な壁と天井に包まれた。向かいの壁にアーチ形の小窓がうがたれ、曲がった鉄格子ごしに冬陽が射しこんでくる。外に見えるのは、修道院の壁と中庭ばかり。視線は小窓の隣に描かれたフレスコ画におのずと吸い寄せられる。

僧房の「受胎告知」はさきほどのものに比べずっとシンプルだ。何の装飾もないヴォールト天井のもと、静かに向き合う大天使と処女。二人の間には、白い壁と床が広がるばかり。けれども、ここには光が描かれている。大天使の発する光が画中の外光と溶け合い、白い空間を柔らかな光で満たしている。壁に落ちるマリアの影は肩から上が途切れている。頭が光輪に包まれているからだ。光そのものである天使には、もちろん影はない。
絵の周囲にもむき出しの壁と天井が痛いほど白く広がり、絵と現実の区別がつかなくなってくる。ふと気づいた。このがらんとした空間は修道士が、自分だけの天使、自分だけのマリアを夢想するためのスクリーンだったのではないか。壁のフレスコ画は、その手引きの役目を担っている。平安時代以降の阿弥陀来迎図が、お迎えの夢想の手引きでもあったように。
そう考えると、僧房のフレスコ画群が落ち着いた色であっさり描かれているのも頷ける。これらの絵は、修道士が聖なるイメージを結ぶのを助けてきた。自らも修道士であった画家なればこそ、瞑想に必要なものだけをシンプルに、美しく描くことができたのだろう。

義湘(ぎしょう)に負けないイケメン修道僧
こんなことを思いながら、サヴォナローラの部屋をスケッチしていると、年配の女性の声がした。銀髪をおかっぱにし、ピンクのスカーフを結んだ小柄な老婦人が微笑んでいる。肩に掛けた自分のカメラを指さしながら、
「写真なんかよりずっといい方法ね。手で描けば、いつまでも忘れないもの」
フィレンツェに来るのは40年ぶり、今年63になるのと言う。チャーミングなおばあちゃま、初めてここへ来たころはどんなに愛らしい乙女だったろう。もしかしたら、フラ・アンジェリコの処女マリアに似ていたかもしれない。
すべての小部屋をめぐってから、もう一度「受胎告知」のある踊り場に立った。やがて、弾むような足音が階段を上ってきて、少年の横顔が隣に並んだ。細く尖った鼻梁と強くカールした睫毛が、大天使ガブリエルそっくりだ。正午の鐘が聞こえてくる。
(1999,12,11・18)

リナイオーリ祭壇画(サン・マルコ美術館1階)の奏楽天使の意匠の壁飾り(左)
「聖母戴冠」(ウフィツィ美術館)のジャケット入りのCD(右)
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