花の都の天使たち

『原寸美術館』小学館 より
ボッティチェリの「春」の野原には、数えきれないほどの花々が咲き乱れている。クリスマスローズ、菫、たんぽぽ、ひな菊、矢車草、苺、アイリス、ヒアシンス…絵のなかの花のほとんどがフィレンツェ近郊の野山で見られるという。美しい花の野原が身近にあるためか、トスカーナではガーデニングがあまり盛んでないと聞いた。
冬の旅でも、フィエーゾレの古代遺跡にゆれるひな菊とたんぽぽは、遠い春を運んできたし、坂の途中で見かけた聖母像には、黄色い野菊が手向けられていた。

フィリッポ・リッピ「聖母戴冠」(ウフィツィ美術館) Filippo Lippi, Scala より
天使と親しい花は何だろう。受胎告知の大天使ガブリエルは白百合をもつことが多い。紅白の薔薇冠をつける天使もよく見かける。白百合は聖母の純潔の象徴、紅白の薔薇冠は天国で授けられる祝福のしるしと言われる。百合と薔薇は、飛天にとっての蓮のようなものかもしれない。

ところで、百合はフィレンツェのシンボルとも言われている。街の紋章を見ると、一輪の花の側面観を図案化しており、三枚の花びらの間から、装飾的な蕊が二本のぞく。フランスの百合花紋(Fleur-de-lis)とよく似ている。花の聖母の名をもつ大聖堂も、百合とかかわりの深い聖母マリアに捧げられている。シエナの画家シモーネ・マルティ-ニの「受胎告知」では、大天使がオリーブの枝をもつが、これはライバル都市フィレンツェのシンボルである百合を避けるためと言われている。

けれども、ヴェッキオ橋の金銀細工店で、街の紋章がついた銀の匙を求めたときのこと。店員たちはその紋章が、アイリスをかたどったものだと説明してくれた。五月には、辺りの野山がこの花で紫に染まるのだと胸を張って。本屋の店員が出してきた図鑑にも、青紫の花びらに、黄色い縁どりのついたアイリスが載っていた。さらに、サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局では、アイリスの香りの石鹸を勧められた。なにしろ街の紋章になっている花ですからね、と。薬局の包み紙にもアイリスの花と葉が薄緑色で印刷されていた。かと思えば、この紋章は架空の花だよと言う人もいた。
調べてみると、アイリスもまた聖母マリアの象徴である。白いアイリスは純潔を、青のアイリスは天の后マリアを表わしている。また、リリス(百合)とアイリスは音が近く、二つの花はしばしば混同されてきたという。
思うに、フィレンツェのシンボルは元来、聖母の象徴として最もポピュラーな百合の花だったのだろう。そこへ、身近に咲きみだれるアイリスのイメージが、いつしか重ねられていったのではないか。

いずれにせよ、この花の紋章は街中にあふれている。大聖堂や鐘楼の浮彫り装飾、土産物屋の包装紙、待降節の通りを行進する子供たちの祭り着、露店で焼き栗を入れてくれる紙袋にも。街角でこの花紋と出会うたび、百合ともアイリスともつかぬ爽やかな香りに包まれる気がした。
(1999.12.11)

